ゲーミングおかあさん

ゲームと歌とわたし

水平線が光る朝に

長男が「backnumberの水平線って曲、知ってる?」といって聴かせてくれた。夏に突然Youtubeで発表された曲なんだけど、すごくいいんだって言う長男の横顔は、またすこし大人びたように見えた。毎日の生活のなかでいろいろなことを感じながら、はじめて出会う感情にはひとつひとつ名前をつけながら、からだもこころも成長していくんだなとしみじみ思う。しずかに、でもすごい勢いで。

youtu.be

自分に投げかけられた言葉の意味を考えるとき、わたしはいろいろな別の言葉や表現に変えてみて、その真意を探るくせがある。なぜそんなことをするかというと、ひとつの言葉の意味が、わたしとあなたでは違うことが多いからだ。もしこの世の中に言葉を定義する辞書がひとつしかなかったら、言葉の意味はそこに書かれているものがすべてだ。だけど実際は違う。ひとそれぞれ手にする辞書が違う。辞書すらもたないひともいるし、まちがった意味をおぼえて、まちがった使い方をしてしまうひともいるだろう。

おなじ言葉を使っても、わたしとあなたでその意味を違うようにとらえていたとしたら、伝えたいことはいつまでたっても伝わらない。どういう意味だろう?なにを伝えたいと思っているのだろう?とおたがいが思い合わないかぎり、歩みよらないかぎり、誤解や行き違いはなくならない。ただ、そうやってひとつひとつの言葉の意味を深く考えながら暮らしていくのはとてもむずかしい。接するひとの数が多ければ多いひとほど、いちいちそんなことしていられないというのが本音だろう。

わたしだってそうだ。たいていのことは、自分の辞書と照らし合わせて大筋をとらえ、まあおそらくこういうことだろう、違うかもしれないけどと、可能性を残して前にすすむ。可能性を残すのが大事だと思ってる。だから、なにか相違があったときに「そんなことはひとことも言っていない」と言われると脱力してしまうのだ。言葉を自分の辞書とだけ照らし合わせるひととのあいだにできた溝は、なかなかうまらない。うめるとしたら、こちらが一方的にうめるしかないからだ。わたしはその不毛な作業が苦手だから、すぐにあきらめてしまう。そして、うまらない溝をながめてため息をつき、しずかに立ち去る。

生きていると「正しさを別の正しさで失う悲しみ」に出会うことがたくさんある。時には、しょうがないという言葉では片付けられない悲しみに出会うこともある。いくつになっても葛藤のくりかえしだけど、温かいコーヒーとフランセひとつ口に放り込んで、また今日をはじめる。よい1日になりますように。