ゲーミングおかあさん

ゲームと歌とわたし

孤独が僕を育てていく

何かをみれば自然と感想が生まれる。頭で考えなくても、それはあたりまえのようにわいてきて、心のど真ん中にどーんとある。置きっぱなしにして通り過ぎることもあるけれど、どかさないと前に進めないようなときは、ツイッターでつぶやく。ツイッターは、わたしの中に置いておけないものを置くのにちょうどいい場所だ。

でも最近その場所がすこし、息苦しく感じていた。これはわたしの感覚なのだが、ツイートに多くのレスポンスがついてスレッド化しているものと、ぽつぽつとレスポンスがあるもの、レスポンスを求めていないようなものでは見え方が違う。芸能人や配信者など多くのフォロワーを抱えたひとのツイートは、タイムラインの中でもひときわ派手な色で目立つし、思わずぽつりとひとりごちたツイートは凪いだ水面のように透明だ。それらがタイムライン上でうまく調和するように、苦手なものからは離れ、たとえ自分とは違う色でもおもしろそうなら足してみる、など細かい調整をしながら整えているのだけど、おそらく最近はそれがあんまりうまくいってなかったのだと思う。

わたしは1つの視点にかたよって話が進んでいると、確かにそうみえるしそう感じるけれど別の角度からみたら違う景色がみえるかもしれないと思ってしまう。例えば夫への不満をつぶやいている人がいたとする。それをみて、実際にその場面にいあわせたわけでもないのに、全面的に話者である妻の味方をする人がいる。夫をこきおろす人もいる。もちろんそれが不満を抱えている人への優しさだということくらい、わたしにもわかる。解決することではなく、吐き出すことそのものが目的なのだというのもわかる。でも、わたしにはそれができないのだ。もしかしたら夫が100%悪いのかもしれないけれど、夫側の事情や主張も知らないままその話に入っていくことが難しい。話に入らなくても、見てしまえば感想が生まれるから、なるべく見ないようにする。そんな風に避けて通るものが増えてくると、少しずつ息が苦しくなるのだ。

そして、この息苦しさについて誰かに話すと必ず、「みんな腹の中ではいろいろ思っていても、それを言うとめんどくさいことになるから同調してるだけでしょ」と言われる。上司に話しても、友達に話しても、ほとんどそう返ってくる。言いたいことはわかる。でも、違うんだ。わたしは自分が理解できない行動を分析して理解したいわけじゃない。芽生えてしまった違和感を聞いてもらいたいだけなのだ。でも、結果的に、集団になじんだ行動もとれない、そこに違和感を感じることについての共感も得られない、ただただ人づきあいの下手さを思い知らされて終わる。それも、ぼんやりとした息苦しさの一因なのだと思う。

そうやって、やんわりとした息苦しさや生きづらさをときどき感じながらも、大きく調子を崩さずに済んでいるのは、完全に夫のおかげである。夫は、たぶん半分くらいは、わたしの気持ちをわかってくれている。もともと彼自身は「めんどくさいことになるから同調してるだけ」説を推す人だし、そんなのスルーしたらいいんだよと思っている人だけど、わたしがそうできないことを知っているから、とりあえずそうかそうかと話を聞いてくれる。そうかそうかと聞いてくれるから、話しているうちに散らばっていた思いがまとまって、すんと落ち着く。そんな風に話を聞いてくれるひとがいつもそばにいてくれることは、とても尊いことだ。孤独がわたしを育てていくけれど、安らげる場所は確かにここにある。とてもとても、尊いことだと思う。

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