ゲーミングおかあさん

ゲームと歌とわたし

刺さった枯れ木に注いだ火

何かひどいことに遭遇したときや、理不尽なことをされたときに、証拠写真を撮ったりメモを取ったりするのは当然のことだ。交通事故とか、いじめとか、何かの被害にあったときなどは特に。でもそれってSNSを使って不特定多数のひとたちに知らせて「こんなひどいことする人がいるんですよ!信じられます?」って広めるためにすることじゃないよなと思う。

まずは当事者同士で解決を図る、そのためにできることをする、それでも相手が真摯に対応しない場合や、バックレるそぶりをみせる場合は、第三者に間に入ってもらう。物事を解決するための順番をすっ飛ばして、まっさきにSNS上で晒すやり方は嫌だなと思う。正しいとか間違っているとかじゃなくて(それはわたしが決めることじゃない)、シンプルに好きじゃない。

何かがあったときに誰かにわかってほしい、悔しさや悲しさ、怒りや憤りを共有したいというのはとてもよくわかる。だれかに「ひどい!」「そんなことするなんて信じられない!」って言ってもらえたら、自分のなかのそれらの感情に少し区切りがついて、溜飲が下がることもあるから。でも…証拠写真を添付したり、手紙やメッセージを無断転載したりするのはもう少しよく考えた方がいいのでは?と思う。

当事者同士での話し合いや謝罪の機会をすっとばすということは、とてもとてもこわいことだ。失敗や間違いを許さない、謝罪や反省の機会を与えない、それはつまり常に相手に完璧を求めるということだし、自分にも求められるということ。もちろん謝っても許されないことはある。それでも安易に晒す、炎上させる、そのうえで叩くというやり方がスタンダードになるのはこわいことだと思う。

そんなことを感じた1日だった。

youtu.be