ゲーミングおかあさん

ゲームと歌とわたし

春を待つ胸が苦しいのだ

ブログの名前に「おかあさん」という言葉をいれているわたしがいうのもなんだけど、わたしをつくっている主要成分は母親としてのわたしではなくなっている。こどもたちが小さい頃はわたしのすべてが母親成分でできていたけれど、今はさまざまな成分のうちの1つで、順番もうしろのほうだ。だからおかあさん同士の会話で、こどものことを事細かく話したり、心配したりしているのを聞いていると、ああ自分はもうそのステージにいないのだなぁという気持ちになる。さみしくはない。

もちろんこどもたちに興味がないわけじゃない。いつまでもしあわせでいてほしいと願っているし、助けが必要であればできるだけのことはしてやりたい。だけど彼らの人生はわたしの人生ではないから。そうやってこどもと自分を切り離して考えているものとしては、あまりにもあたりまえに「おかあさん」として扱われるとそうじゃないんだよなぁと思ってしまう。高校生になっても親同士がグループLINEで事細かに連絡をとりあう知らせがくるたびに、「すまんな、わたしはもうここに用はない」という気持ちになるのだ。

きょうの書写は「ラプンツェル」と「ラプンツェル

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